街中にある銅像はなぜ裸なのか
街中にある銅像はなぜ裸なのか?
普通に考えれば、その作品に「普遍性」を齎す為と考えるのが自然です。見にまとう衣服は時代や価値観によって大きく異なりますが、人間の身体はそうそう変わりませんからね。
私の住む札幌を代表する偉大な彫刻家・本郷新氏の美術館に行ってきました。
そこでは何故、裸なのか?の問いに対するアンサーとして「着衣の像は、身なりや持ち物によって、その人の階級・職業・生きた時代などを詳細にあらわす」「いっさいの装飾を捨て去った裸体像は、身分や時代の垣根を超えて、たくさんの人々にメッセージを届けることができる」と紹介されていました。
館内には幾つもの彫刻が飾られていましたが、多くを裸体像が占めるもの納得です。
ただ、驚くことに昨今では「公共のスペースに裸の像を置くなどケシカラン!」と訴える層も一定数居るようです。そう主張する人たちの目には裸の銅像が「卑猥」に見えているようですが、どうにも私は理解に苦しみます。
また、裸体像の問題については論点を変え「宗教性」と絡めて複雑化・問題化させるレトリックが用いられる場合があるので注意が必要です。
例えば、例として1981年ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の長崎訪問にまつわるエピソードがあります。当時、ローマ教皇は平和公園に立ち寄らなかったのですが、その理由としてモニュメント「平和祈念像」の存在がしばしば挙げられます。
当のバチカンが詳細を明言していない為に真意は不明なものの、一般的な理解としては「偶像崇拝に繋がりかねない平和祈念像は、キリスト教の宗教観と相容れなかった為」とされています。
ただ、このエピソードに尾ヒレを付ける形で「平和祈念像が半裸の男性像である事が問題なのだ!」と、あたかも”裸体像”である事が問題である旨の論を張る向きもあります。ただ、これは明らかな間違いと言えるでしょう。
何故なら、キリスト教が禁止しているのは偶像崇拝(=神・Godを形にすること)であって、男性の半裸に何らかの問題を感じている訳ではありません。十字架に磔にされたキリスト像は世界各地にありますが、それらはいずれも半裸で"B地区"も出ていますからね。
性器を忠実描写した、ろくでなし子さんの作品「デコまん」を公共スペースに飾るであれば話は別でしょうが(←私は大好きです)、街中の裸体像に向けての批判はキャンセルカルチャーに似た違和感を感じる訳であります。〔了〕